3年前、江古田のギャラリーで個展をしていたときのことです。
ひとりのおそらく外国籍と思しき女性が会場に入って来て、無表情でしたがひとつひとつゆっくり丁寧に作品を見て回り、芳名帳に名前を書き入れ外に出ようとしたので、私は是非感想を聞きたく声をかけました。
彼女は、お父様の介護の道すがら毎日ギャラリーの前を通っていて、何時もは素通りしてたのだけど、窓から中の様子を見て興味が湧き、その日初めて立ち寄ってみたとの事です。
しかし、それからすぐ話は途切れました。視線は床に行き、少しの沈黙が続きましたが、覚悟を決めたのかマスク越しに今までより低い声で話を続けたのです。
「この犬達、どれもこれも父に似ているんです。見てて辛いんです。父はずっと昔から酒好き遊び好きで家族を顧みず、悪いことばかり、放蕩ばかりして来ました。母も私たち子供もその為ずっと苦労の連続でした。そんな父が、数年前から重い病に侵されながらも入院を拒み、自宅で寝たきりの生活をしています。
この犬を見ていると、実際痩せこけて骨と皮になってて父の顔そっくりだし、表情も苦しい苦しいと私たちに迫る父に似ていて、見ててとても辛いんです。
この中に、もし安心して優しい気持ちになれる明るい表情の犬がたった1匹でも居たら、少しは私も救われる気持ちになったのですが最後までありませんでした。とても悲しいし残念です…。」
女性は軽く会釈をし、ゆっくりドアを開け外に出て行ってしまいました。
私は愕然として言葉が出ませんでした。
私としては問題提起しようと勇み込んで開催した個展で、鑑賞者を明るく楽しい気持ちにすることなど毛頭望んではいなかったのですが、彼女にそれほど辛い思いをさせてしまったのかと思うとさすがにこたえました。
その時以来、作品を作っている時は勿論、普段、例えばポチの顔を見る時、ポチと散歩する時も、彼女が言った事は頭の片隅から離れませんでした。
口を広げ明るく笑うポーズでポチも作って見ましたが、肝心の気持ちの移行が出来ません。結果、ただの笑いの記号を装ったポチの顔になりました。
信念と優しさは相反するものなのかと悩みました。
羽子はムクロジの黒々とした実に竹ひごを刺し鳥の羽根や和紙を添え足し作ったもので、その形が、病気を運ぶ蚊を食べるトンボに似ている為、古来よりお正月無病息災を祈る縁起良い遊び道具として親しまれて来ました。
私にはこんな作品を作ることしか出来ないけど、あれからお父様やご家族が少しでも苦しみから解放され、穏やかな顔で暮らされていることを望み続けています。
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